未分類

「努力できない人はいる」から考える、“前に進む”ための思考

近年、「努力できない人はいる」「努力しても報われないことはある」といった声がよく聞かれるようになった。
これは事実だし、重要な視点でもある。

努力を語るうえで、環境や生まれ持った能力を無視することはできない。
誰もが同じスタートラインに立てるわけではない。
それを無視して「頑張ればなんとかなる」と言い切ることは、空々しさを通り越して、時に暴力にもなる。

一方で、「救いのなさ」だけを指摘するムーブもまた、どこか思考を麻痺させてしまう。
痛みを肯定するはずの言葉が、絶望だけを置いていく。
努力した人の頑張りに「運が良かっただけ」と冷笑を浴びせたり、努力できない人をただ甘えと切り捨てたりするような空気が、交差しながら人を消耗させている。

Contents

救いのなさを語ることの意義と限界

もちろん、救いのなさを語ることには意味がある。
それは、

  • 深く傷ついた人の痛みを否定しないこと
  • 根拠のない希望によってさらに傷つく人を守ること
  • 努力の構造的不平等を明るみに出すこと

といった面において、確かな価値を持っている。

けれど同時に、それがただ絶望を共有して終わるだけであれば、
むしろ聞く人の思考を停滞させ、意志や希望を奪うものにもなりうる。
共感のつもりが、無力さを連鎖させるだけになることもある。
時には、それが努力できる人の足も引っ張る。

だからこそ、絶望を語ることと、絶望の中にとどまり続けることは、分けて考えたい。

■ コンプレックスの連鎖と、その断ち切り方

絶望的な態度や批判的な言動の背景には、しばしば「他者によって刺激されたコンプレックス」が潜んでいる。
誰かの成功、環境、能力──そういったものを目の当たりにしたとき、自分との違いに戸惑い、心がざわつくのは自然なことだ。

けれど、そこで生まれる劣等感が強くなりすぎると、私たちの視野を狭め、思考を歪ませる。
本来向けるべきエネルギーが「自分を責めること」や「他者を否定すること」に変わり、
やがて「どうせ無理だ」「あの人はズルい」といった感情が根を張ってしまう。

気づけば、SNSで誰かを冷笑したり、成功者に不寛容になったり、
“世界と自分の距離”ばかりに目がいってしまう。
これは、自分を守るために誰かを攻撃するという、静かな連鎖の始まりにもなり得る。

■ 意図的にコンプレックスを刺激してくる存在

さらに厄介なのは、意図的にコンプレックスを刺激してくる人間が存在することだ。
あえてマウントを取り、他者の劣等感に触れるような言葉を選び、
「できる自分」を強調することで、自らの優位性を保とうとする。
そうした態度は、直接的な暴力ではなくても、確実に人を傷つけ、萎縮させる。

ここで私は強く主張する。

「コンプレックスを感じる必要はない」

つまらない価値観に人生の主導権を握られてはいけない。

誰かが光って見える瞬間も、自分の価値は一切減っていない。
他人の功績に価値があることと、自分の存在に価値があることは、同時に成り立つ。

そして同じくらい大事なのは、自分が他人にコンプレックスを抱かせないという姿勢だ。
マウントを取らず、勝ち負けにこだわらず、自己の確かさを土台にして他者と関わる。
その姿勢は、共感と理解を育み、健やかな関係性を生む土壌になる。

■ 私たちは、社会をつくる当事者だ

ここで一つ視点を変えたい。

あなたがコンプレックスを持たないということは、
それをもとに広がる負の連鎖を断ち切れる可能性が高いということ

私たち一人ひとりの態度や言葉が、社会に小さな波紋を起こしていく。
その波紋は人から人へと広がり、やがて社会全体の空気を変えていく。
だからこそ、コンプレックスがコンプレックスを生む負のループは絶対に断ち切らなければならない。

どんな行動を選ぶか。それが他者にどう作用するか。社会への影響を常に考える必要がある。

自分を否定せず、他者も否定せずにいられること。
その一つひとつの選択が、より調和の取れた社会の礎となっていく。

では、そこからどう前に進むか?

鍵になるのは、努力と目標の“定義”を見直すことだと思う。

努力を「目標のための苦行」とだけ捉えると、
その目標が叶わなかったとき、人生そのものが空白になってしまう。
でも、努力をこう捉え直すことはできないだろうか。

  • 自分を少しでも前に進めようとする、ささやかな意志
  • 社会的成功とは無関係に、自分の輪郭をつくっていく営み
  • 痛みに耐えることではなく、痛みの中で“どう在るか”を問い直すこと

そして、目標そのものもまた、変えてもいいものなのではないか。

目標を変えることは敗北ではない

目標を変えることは、しばしば「負け」と捉えられる。
最初に掲げた夢を貫けなかった、妥協してしまった、逃げてしまった、と。

でも、それは違うと思う。

目標とは、「自己の価値を証明するもの」ではなく、
「自己と対話するための仮の道標」だ。
人生のある時点で自分にとって大切なものが変われば、目標もまた変わって当然。

むしろ、自分の現実や限界を見つめ直し、そこに新たな責任の形を与えることは、
誠実で、しなやかで、そして強い選択だと思う。

目標を変えることは、別のかたちで自分に責任を持ち直すということ。
それは後退ではなく、むしろ前進なのだ。

「きれいごとしか残らない」ことへの違和感と、それでも残るもの

努力も報われず、目標も手放し、
最後に「前向きでいよう」みたいな言葉しか残らないように感じるとき、
「きれいごとしか残らない」ような虚無感に襲われることがある。

でも本当は、きれいごと以外のものの方が多く残る

痛み、理不尽、執着、未練、怒り、悔しさ、諦め――
それらが人の人生を支えていることもある。

だからこそ、その中から何を拾い上げるか、どんな言葉を選ぶか
それを自分で決められるということ自体が、一つの尊厳なのかもしれない。

たとえそれが誰かに「きれいごと」と見えたとしても、
それが自分にとっての灯火なら、残しておいていい。

最後に:誰かを否定せず、自分を否定しない

努力できる人を否定しないこと。
努力できない人を否定しないこと。
報われた人を軽視しないこと。
報われなかった人の痛みを無視しないこと。

そして何より、自分の努力や目標の変化を、自分で否定しないこと

進み方は一つではないし、進まない時期があってもいい。
けれど、その中で「どう在るか」を問い続けること。
それが、救いのなさを越えて、自分だけの意味を生み出していく営みになるのだと思う。

-未分類
-